カルマの坂

 



 街の喧噪に砂塵がかぶさる。空は人の心とは裏腹に晴れ渡り、太陽は欠片の容赦もなく大地を灼いてゆく。
 怒号と聞き違う商人たちの声、すすり泣く奴隷たちの悲鳴。
 凡てを呑み込む街は、小さくも大きくもなく。



 カルマの坂



 罵声が飛んだ。次いで林檎がその軌跡を追う。そのままであれば、林檎は壁に当たって砕けただろう。しかしそれは、路地から伸びた一本の腕に阻止された。
 熟れた林檎をしっかと掴んだその手は、すぐに奥に引っ込んで。数瞬後にそこから覘いたのは、人の頭だった。
「へたくそ」
 それは少年の声でそう云うと、風の速さでいなくなった。
 追いかけてきた店主が悔しそうに歯軋りをする。
「次は捕まえるからな、泥棒猫め!」
 その声は、既に壁を登りきった少年の背には届かない。





 入り組んだ裏路地を走って走って、照りつける太陽の光がなくなると、ようやっと少年はその足を止めた。人目が無いのを素早く確認してから、木箱の陰に座り込む。
 荒れた呼吸を整えもせずに、小脇に抱えたパンにかじりついた。
 パンは乾いて硬く、味気なくて、飲み物が無ければ喉を通りそうにないが、構わず少年はそれを胃に収めてゆく。
 身を丸めてパンを貪るその姿は、餓えた獣に似ていた。
 痩せた少年だった。布をつぎあわせた服から覘く手足は木の枝のように細く骨ばって瑕だらけで。もともと色素の薄い肌は白く、歳の割には張りが無い。
 一際目を引くのは、鮮血のような赤い髪だ。砂埃にまみれてはいるが、ざんばらに伸びたそれは色褪せることなく、同じ色の瞳、乱れきった世界への暗い怒りが、吊り上がり気味のそれの中に燃えていた。
 短時間でパンを胃に収めきってしまうと、汚れた少年の顔に、ようやく余裕が見えた。追い詰められた猫の顔から、裏街の少年の顔へ。
 少年は笑っていた。今日はとっておきがあるからだ。待ちきれぬといった感でゆっくりと懐に手を入れた。大事そうに抜き出したそれに握られているのは、真っ赤に熟れた林檎。
 少年はそれにかじりつこうとして──舌を打った。
「鼻が、きくね」
 苦々しく吐き捨てると、少年は林檎を懐へしまった。視線を巡らせれば、近くの路地から小さな人影がいくつか。
 そのどれもが少年と同じように細く、似たようなボロを纏い。
 のろのろと腰を上げて、少年は赤い目で素早く状況を確認した。相手はこの界隈でも札付きのワルで知られた三人組だ。
 少年は、怯まなかった。
「人は殴れるのに物は盗めないなんて、臆病だね」
 拳が風を切った。





 生まれて初めての感覚は寒さだった。
 生まれたときから独りだった。
 親なんて顔も知らなかった。
 名を聞かれることも無かったから、名も無かった。
 屋根の下で眠ったことなどなく。
 餓えを感じなかったことなどなく。
 うだるような暑さの中でも寒さを覚えなかったことなどなく。
 盗みが悪いと思ったことなどなく。
 生きているのを疑問に思ったことなどなく。


 少年はただ、生きていた。





 どれだけ時間が経ったものか、空は既に満天の星を煌かせ。
 少年は地面に転がったまま、無神経に綺麗なそれを見上げていた。
 持ち上がった手が頬の青痣に触れる。
 数には勝てなかった。気を失うまで殴られた。気付いたときには奴らの姿は無く、懐から林檎が消えていた。
 身体は自由に動かない。骨に異常はないようだが、少し身動ぎするだけで、打撲した部位が悲鳴をあげた。
 殺すより性質が悪い。口中の血を吐き出して、しかし少年は起き上がらない。眠れるときに眠り、回復できるときに回復しておかねば、思うように動けないからだ。
 動けなくなったら最後、店主の折檻が待っている。
 少年は目を閉じた。目蓋の裏に星の光が灼きついて、少し明るい。
 残像に、ほうき星がひとつ。
 また、人がひとり死んだ。少なくとも少年はそう思っている。力が強いほどそれは明るい光となって輝くのだ。
 自論の根拠は一切無いが、それに自分を当てはめるなら、きっとちかりとも輝かないのだろうと思う。不安や不満は感じない。
 くだらないことだ。くだらない癖、考えを深めるのは嫌いじゃない。
 世の中が嫌いだった。自分以外の凡てが敵に見えた。もっとマシに生きれるのなら、何処へでも行けると思った。
 死ぬのは楽だと思う。されどそうしようと思ったことはない。
 思いが渦を巻いて、段々と身体の主導権が睡魔へと手渡され。
 まどろみの淵で、運命の女神が嘲笑うのを聞きながら。
 それでも、生きていたかった。





 今日も少年は走っている。
 布地に隠れて店に忍び寄り、素早くパンを引き抜き抱え込む。
 他のパンが少し崩れて、店主が振り返る。
 少年は既に駆け出していた。
 馬は愚か牛まで驚かせる店主の怒声。白煉瓦の風景に、赤い髪は厭でも目立つ。少年は身を低くして表通りに飛び込んだ。
 人々の合間を風のように縫って走った。避け損ねて肩がぶつかった間抜けな男から財布を盗む。
 金を餌代わりにしてぶよぶよと醜く太った豚ども!
 お前たちには決して追いつけまい。そんな足ではのろまな亀を追いかけるのが精一杯さ。
 この人込みに紛れてしまえば、流石の店主も諦めざるを得ないだろう。少年は心中でほくそ笑んだ。
 意気揚々と裏通りにズラかろうとしたとき、大人たちの囁きが少年の耳を掠めた。
 どうやら、好色の金持ちの話題らしい。何でも新しい奴隷を手に入れたとかで。
 またかと、少年は思う。今まで何人もの可哀相な少女たちを見てきた。鎖に繋がれ、心も身体も引き裂かれて、捨てられる。そうなることを運命付けられて生まれてきたのだ。何と惨めなことだろう。
 遠くに人だかりができている。お気に入りを見つけて凱旋というわけか。
 気分が悪かった。見る必要もないと少年は踵を返しかけ、女たちの息を呑む声に、何とはなし、肩越しに振り返る。
 心を奪われた。
 声さえ出なかった。遠目にもはっきり判る彼女の容貌が、少年の足を止めていた。
 駱駝に載せられた鞍の上に、着飾った少女が一人。少年と同じ年頃だろうか、遠い街から売られてきたのだろう、沙漠の街に似つかわしくない、白く透けるような肌。紅で彩られた形の良い小さな口唇は閉じられ、笑うことはない。
 俯き、零れ落ちる鴉の濡れ羽色の合間から覘く、夜闇をそのまま凝縮したような黒瞳からは、一粒の雫が。
 人形が泣いている。誰かが云った。
 少年は叫んだ。何を叫んだのかも覚えていない。ただ、何かを伝えたかった。
 されど少年の声は人込みに呑まれ、掻き消されて。
 声が届いたのかも判らない。少女がわずかに顔を動かし、少年に向かって微笑んだように、見えた。
 後ろから大きな手が伸びて少年の肩を掴み、力任せに殴り飛ばす。店主だと気付くのにそう時間はかからなかった。
 少年の細い身体は軽々と地面に打ち付けられ、砂埃を上げて転がった。反射だけで起き上がり駆け出しながら、少年は行列の主を探した。
 先頭の駱駝を陣取る豚には、見覚えがある。坂の上の大富豪だ。
 パンをかなぐり捨てて、少年は走った。捕まるわけにはいかなかった。
 あんな綺麗なものは、今まで見たこともなかった。あの身体に穢れた手が触れるのだと思うと、気が狂いそうになるくらい怒りを感じた。
 何も知らない笑顔だった。奪われたくないと思った。
 走りながら、居るとも知れない神を呪った。
 何故あなたは、僕らだけ愛してくれないのか。





 血のような赤い太陽が、地平線の向こうに沈んでゆく。
 坂の中腹からは、その様子がよく見えた。
 少年の手の中で、安物の剣が金属の鳴き声を上げる。
 武器屋に忍び込み、手近なそれを盗んだ。柄を投げ捨てたのに、少年の身体にそれは重すぎて。
 大きすぎる剣を引きずって、少年は坂を登った。
 細い背が、夕陽に照らされて赤く染まっている。
 迷いなどなかった。
 それを知っていたら、少年は笑っただろうか。
 己が登る坂の名を、少年はまだ知らない。





 夕陽ではない赤が、少年を濡らす。
 人を殺すことに躊躇いはなく。
 怒りと憎しみの凡てをこめて剣を振るった。
 返り血を浴びて、少年は赤く染まっていった。髪も目も、彼が持って生まれたものよりも赤く、なお赤く。
 豚の断末魔を聞き届けて、邸の一番奥の部屋に。
 少女は居た。
 紅で彩られた形の良い小さな口唇が笑んでいた。
 何も知らない笑顔だった。
 何も知り得ない笑顔だった。
 とてもとても綺麗な、笑顔だった。
 遅かったのだと、少年は妙に冷静な頭で識った。
 呆然と立ち尽くした少年の前で、少女はただ笑っていた。
 泣くことも忘れていた。空腹を思い出していた。
 まだ鮮血の滴り落ちる剣を持ち上げる。
 爆発しそうな想いを抱えて少年がそれを振り下ろしたとき。
 暗くなった空に、ほうき星は流れなかった。















 血のような赤い太陽が、地平線の向こうに沈んでゆく。
 坂の中腹からは、その様子がよく見えた。
 全身を赤く染め上げながら、青年はのろのろと腰を上げた。その肩で、夕陽よりもなお赤い髪が揺れている。
 青年の傍らには、何も彫られることのなかった、小さな石塚があった。行きがけに摘んだ野花を添えて。
 墓前に、ラジウムは笑いかけた。
 あのとき知らなかったことが、今ならわかる。
 ゆっくりと踵を返して、坂を下った。
 今はもう、剣を抱えてこの坂を登ることはない。
 それでも彼は、生きている。



 それは、カルマの坂と云った。












【カルマの坂】03.5.19.19:03
ポルノグラフィティ、「カルマの坂」より。
赤毛の盗賊、ラジウム。ちょっと暗い過去話。
生きていることは、罪を重ねることである。
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by radium_plus | 2006-12-07 00:31 | Works:ニビ
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