マゾヒストの独白

 



 他人と義理人情ほどあてにならないものはないと、獄中仲間が云っていた。そいつは自分と金だけが信用できると云って、毎日毎日毎日毎日毎日自分だけの脆くて柔らかい殻の中に閉じこもっていた。飽きもせずに周りを罵り闇の中に隠れ、やがて自分だけの脆くて柔らかい脳味噌を腐らせて死んでいった。
 ばかなやつ。一人分広くなってそれでもまだ異様な程狭い集団牢の中で誰かがわらう。ここには流石獄中と云うか倫理や道徳観念は勿論無くて人徳者なんて獄中社会構成ヒエラルキーの最下層で(そもそもそんな奴は居ない)、誰が最初に死ぬかで賭けをして、その翌日には大抵誰かが死んだりする。居心地は、悪くない。皆が皆自分のことだけを考えているから。そういう風になりきれれば、おそらく死ぬこともないだろうし。
 俺は男の下で啼いている(たまに上のときもあるが)。想像して気持ちのいいもんでもないだろう。なんせ男が女役というだけでアソコにナニを突っ込まれるわけだからごく普通の常識を持って考えたらありえないし、互いのプライバシーなんて前世紀の遺物扱いされてるものがこの場所に存在している訳が勿論、無い。
 全く笑える話だ。(下手糞な奴だな)。確かに自分と金は信用できる。他人と義理人情はあてにならないだろう。その通りだと思う。(口は大きい癖にナニは小さく、か。下らない)。あいつがもう一つくらいあの脳味噌に刻んでいたなら、死ななかっただろうか。(嗚呼、もう、充分だろ?)。結局のところあいつも俺もそうしてここに溜まってる屑野郎どもも、そのあてにならないものに生かされてるわけで云ってしまえばあてにしなければ死ぬってことを知らなかっただけなんだ、あいつは。(…尤も、ここに居る奴等は俺を含めて全員屑だがね)。それは決して人を殺したりモノを盗んだりするような罪ではないし、知らなかったところであいつが死んだだけだから本来なら誰にも迷惑はかからないが、少なくとも俺が迷惑に思っているのは確かだ。あいつが死んだお陰であいつの「お相手」が全員俺のところに流れてきたから当然と云えるだろう。全く迷惑な話だ。
 ともあれ俺はもう少しこの下手糞の相手をしなきゃならないらしい。こういうときは何か別のことを考えるのがいい。価値観の違いの話をしよう。
 価値観の違いというのは何処にでも存在している至極当然の人間性で、ここでもそれは小さな諍いから殺しの理由まで行動理念を大きく支配している。幸い俺は然程気性も荒くなく基本的には従順で大人しい。媚を売ったりはしないが必要とあらば自分のプライドを切り売りするほどには大人であるし、そういうことはままある。(この場合俺の意思は別の場所にあると仮定する)。周りに云わせてしまえば模範的な囚人という奴で、獄中社会構成ヒエラルキーは無論最下層。だが更に幸いなことに俺は莫迦ではないので、自分の顔が悪くないことも、体躯が余り立派でないことも理解している。そして絶対的な数の暴力と抵抗した間抜けの末路も知っている。俺は利口にも導き出された一つの答えに従って行動しているという訳だ。何かを学ぶには代価が必要だが、奥歯一本で済んだのも中々に凄いと自分でも思う。プライドというここでは無用の長物に縛られて、命すら捨てても学べずに居る奴もザラなのだから。
 つまり俺の獄中ライフは誰かの下に成り立っているという訳だが、価値観の違いを語る上で看守のジョン・マイルは欠かせない。力がイコール権力の場所で、奴は今も昔も不動の貴族だ。気に入らない奴は問答無用で懲罰房行き。帰ってきた奴は皆何かを悟ったような面をしてる。原則(と書いてルールと読むのが獄中社会の常識だが)は一つ、逆らうな。例外は勿論、無い。
 奴は所謂変態と云う奴で、詳しく云うと少年少女趣味嗜虐嗜好女装癖他諸々という聞くに堪えないというか寧ろ可哀想なくらいにアブノーマルオンパの勢いだが、唯一の救いは理性を持っているということだ。狂人でないということはポイントが高い。奴に鞭で打擲されようが縛られようがドレスを着せられようがそれは単にフェチズムという性癖、つまりは価値観の違いがそこに存在しているというだけだ。何を望まれているかなんて明白で、云う通りにしていれば奴は悦び、それに見合った褒美を寄越す。相手が狂人ではそうはいかないだろう? 価値観の違いもあったものじゃない。
 まあ看守との取引なんてあってないようなものだが、それでも無いよりましだ。おかげで俺は大した病気にもならずに済んだし、(痔だけで済んだのは奇跡に近い)、イカれ野郎の仲間入りをすることもなかった。それだけでも儲けものだというのに、極めつけといったら奴の顔だ。釈放通知を俺に知らせるときの奴といったら! ピーナツみたいに小さな目を可愛らしく瞬かせながら鷲鼻を捻じ曲げエラの張った魚みたいな顔を歪めて祝ってくれたものだ。危うく腹を抱えて爆笑するところだったがなんとか踏みとどまった。
 思い起こせばここの連中と強制的にお友達になったのは世の中頑張ればどうにかなると大真面目に信じていたほど餓鬼の時分で、起床と就寝の時間だけで一日を知るような感覚の中、それでも俺は毎週の祈りの日を忘れたことはない。(放り込まれたのが祈りの日だったから、一日以上意識を飛ばしていなければ多分計算は合ってる)。もう何年ここに居るかも憶えていないけれど、俺という人間はそれを何処かで正確に時間という単位で切り刻んで仕舞っているのだ。いや、憶えていないんじゃない。憶えていたくない訳でもない。
 記憶というのは人間の持って生まれた能力の中で最も役に立たないもので、取るに足らない思い込み、例えば期待や絶望、特に嫉妬とかいう下らない感情で簡単に塗り替えられてしまうものだと知っているからだ。故に俺は原因の一つである時間軸にそれを納めていない。
 全く本当に自分って奴は信用できる。実は俺は疾うの昔にイカれてしまっていて、今起きていることも全部俺の最高にクレバーな脳が作り上げた妄想だったとしたら? ある日目覚めてみると全部夢だったとしたら? 随分とマゾな妄想や夢だとは思うが、驚きも落胆も、ましてや俺は喜びもしないだろう。たとえ凡てが嘘だったとしても、人間はこの記憶という曖昧なものに付随して生きているのは確かだ。
 真実が何処にも無いのなら、取り敢えずはそこに居る自分を信じてやるしかない。事柄がそこに無くとも、喚起したその感情は本物で、裏切らない。俺を組み敷いてるこの男を蹴り飛ばしたい苛立ちに駆られるのもまた真実だ。下手糞なんだからしょうがない。
 ああ、ようやっと終わった。次は誰だ? 今日で最後なんだから存分にお相手してやるよ。
 まあ、たとえ凡てが嘘だったとしても、俺は普通にマゾなんだって自己認識の証明くらいは出来るなと、糸屑みたいな意識を飛ばす前に思った。
 なんて釈放前日の獄中祝賀パーティの内容を馴染みの鍛冶屋に話したら、いつもと全く変わらない狐みたいな苦笑で「大変だったね」とか云うもんだから全部嘘にしてやりたくなった。別に同情とかが欲しかったわけじゃないが。
 そこらへんに脱ぎ捨てたままだった僧衣を肩から引っかけると、出かけるの? と声。もう午前五時だよ当然だろう。
 白みがかった空は相変わらずの晴れで飯はあそことは比べ物にならないくらい美味くて付き合う人間はどいつもこいつも笑えるくらいいい奴ばっかりだ。あいつにも見せてやりたかったなんておセンチなことは全く思わないが、他人と義理人情はあてにならないけれど上手く付き合っていくのは中々楽しいものだと教えてやりたいとは思った。
 387回目の祈りは名も知らなかったあいつにくれてやろうか。そう思えるほどには、俺は幸せだ。
 聖堂の鐘の音が祈りの日を知らせてる。鍛冶屋も仕込みに行くらしい。窓の外では若いのが剣を振ってる。
 平和だなととりとめもなくそう思った。










【マゾヒストの独白】作成日不明
セリオ獄中話。奴は極マゾですが何か。
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by radium_plus | 2006-12-07 00:35 | Works:ニビ
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