ふさり、と視界の端に金色の尻尾が投げ出されて、ネオジムは読みかけの文庫本から顔を上げた。 昼時を少し過ぎた食卓の上に置かれたものは少ない。空になったマグカップ、皿。 変り種で、キツネ。 金色の獣が、けん、と一声鳴いて媚びる。 「…。」 行儀が悪い、と、礼儀に煩いネオジムは、食卓から獣を追い払う。その手を、四足の獣は軽やかに避わして目的地へと着地した。 「うわっ」 そこだけ白い、獣の足が落ち着いたのは、ネオジムの膝の上。 「…なるほど。」 季節は着々と冬に向かっている肌寒い季節。キツネは手ごろなクッション兼、暖を取るに最適なものを選び出したというわけだ。 しかし。 「重いですよ。」 確かにテーブルに乗られるより余程いいが、育ちきった動物に膝の上にどっしり根を下ろされると大分つらい。何より読書の邪魔だ。 ネオジムは容赦など欠片も無い仕草でキツネの首根っこを掴んで床に放った。 「飼い主の所に帰りなさい。」 しかし、キツネの方はキツネの方で、人間の都合などお構い無しだ。たし、と床に着地したと同時にネオジムの足元に駆け寄って、恨めしそうに何度も擦り寄る。 かなりうざったい。 実は割と脆弱な堪忍袋の持ち主であるネオジムは、堪りかねて蹴りつけるまではしないものの、足首でキツネを押しやる。 だが暖が欲しい獣もめげない。押しやられても邪険にされても、ゴム仕掛けの玩具のように何度でも元の位置に帰ってくる。 「ああ、もう!」 手にした文庫本の内容は佳境の一歩手前だ。主人公が連続殺人鬼からの殺人予告を受けて立つ、その無謀な朝鮮を認めた熱血師範が必殺の拳を弟子に授けんとするが弟弟子がそれを是とせず血で血を洗う兄弟弟子対決一歩手前。 「あっちいきなさい!」 何が何だか判らなくなる前に先が読みたいというのに。 「あっちいきなさいってば、ラーク!」 「うわァ…近寄ってすらないのに…」 返答したのはキツネではない。 まあキツネに程近いような奴ではあるが。 「いたんですか、ラークさん。」 淡白なネオジムが思った言葉を口にすると、返答は近くからあった。 「ひ、酷い。おにーさん、ずっと居たじゃないの…」 ネオジムのついたテーブルの大股十歩先、壁に沿って置かれた作業机に向かっていたスピークラークが肩越しに振り返って大仰に嘆く。 「気付きませんでした。」 ネオジムは常に真面目だ。そして本気だ。 酷いわーお兄さん傷付いたわー等と、ご丁寧に床にくず折れて花魁泣きを始めたラークを放置して、とりあえずキツネの襟首を掴んでそちらに差し出す。 「あんたのペットでしょう。これ。どうにかして下さい。」 「うわフォロー皆無」 「知りません。ペットくらいちゃんと躾けて下さい。」 バッサリ斬り捨ててネオジムは、改めて飼い主にキツネを突きつけた。 キツネはネオジムの手に摘まれて、それでも機嫌良さそうにぶらんぶらんと揺れた。 「うう、ネオちゃんがつれない。」 「いいですか、ペットの世話くらい自分でして下さい。なんでか俺に纏わりついてくるんです。」 徹底的に相手にしてくれないので、ラークは花魁泣きをやめてキツネを受け取った。 「うーん…ネオちゃんは動物嫌いだっけ?」 「別にそんなわけじゃないですけど、コイツはうざったいです。」 ぶすくれたネオジムが陳情する間にも、キツネは本来の飼い主の手を飛び出してネオジムの足にじゃれ付いている。 懐いたものだね、とラークが苦笑した。 「笑ってないでどうにかして下さい、読書がしたいんです。」 心底うんざりした口調に、ラークは肩を竦めて、キツネに呼びかけた。 「ウーズ・デメルテ・フォルチ」 すると、それまでネオジムにくっついて離れなかったキツネが、ピクリと反応した。 ラークの顔を見たキツネは、指差された方向へ、存外なほど大人しく離れていく。 「…。」 「ほら、しばらく寄ってこないから大丈夫だよ。」 「……何ですか、今の」 部屋の隅にあるクッションの上に丸まったキツネは、さっきまでしつこくじゃれてきた獣と同じにはどうしても見えない。 「今の、って?」 「うーず、なんとか。」 どう見てもあの一言で、キツネが大人しくなった。 あの一言で追っ払えるなら、今後、こんなにありがたいことは無い。 「ああ。あの子の名前だよ。」 「え、あのキツネの名前、ラーク狐じゃなかったんですか。」 「違う違う。そう呼んだって、あの子言う事きかないでしょ?」 人間のラークは苦笑いして顔の前で手を振る。 「じゃあ、そっちの名前で呼べば言う事聞くんですね、あのキツネ」 「あー…」 何故かラークは言葉を濁し、撫で付けた髪を少し掻いた。 要領を得ない態度にネオジムは言葉を苛立たせる。 「あー、なんですか。」 「綺麗に発音できないと思うなァ」 ウーズ・デメルテ・フォルチ。とこう、脳内で書くだけなら簡単なのだが。 「ううず・でめるて・おるち」 ネオジムが口にした言葉を、キツネはこのように受け取った。 「くッ…!」 「ゲフェンの古い方言だからねぇ…。」 ぴくりともしないキツネに歯噛みするネオジムの傍らで、ラークはそそくさと作業に戻ろうと机へと向かう。 「待って下さい」 字面こそ丁寧だが、ネオジムの口調は最早命令調以外の何でもなくラークの襟首を捕まえた。 「無理だから。」 予想通りの行動に出たネオジムに、ラークは速攻で結論づけた。 「何でですか。単語の一つや二つだったら発音するくらい」 「できたとして、ネオちゃんはどうするの。」 「追っ払いますが。」 簡潔に、飾ることもごまかすことも無くネオジムは答えた。これまで散々とじゃれつかれては色々と邪魔をされてきたのだから当然のことだ。 ラークはひとつ息をついて、腰に手をやった。 「ウーズ・デメルテ・フォルチ。」 キツネがクッションから鼻先を上げて、飼い主を見やった。 いや、とネオジムは気付く。 名前を呼ばれた後、キツネは、飼い主の手を見ているのだ。 果たして、ラークの手が横一線に振られると。 「な…ッ!」 ゴムの玩具の勢いでキツネは、弾かれたようにネオジムまっしぐら。 「んじゃネオちゃん、頑張って練習してね♪」 けーん、と嬉しそうに鳴いては足に擦り寄るキツネを見て、うんうん、と頷きつつラークは作業机に戻っていく。 「ちょ、ラークさん!?」 再びキツネ憑きになった足元では歩くことさえままならない。 ネオジムは避難がましくラークの後ろ頭を睨んだが、それしきでうろたえるようなら製造鍛冶屋は務まらないのだ。 「…っと、と、ッ」 寂しい思いをしたせいか、キツネの擦り寄り方が尋常ではない。ネオジムは足元を掬われないよう床に腰を下ろした。 ここぞとばかり膝に乗ってくるキツネを見下ろして、ほそりと呟いた。 「…怒らせたか?」 迷惑なのは明らかに自分の方なのに、と溜め息をつく。キツネは我関せずで嬉しそうにネオジムの膝に頭を擦り付けては、その暖かさに満足そうにしている。 その仕草が可愛いと言えば、可愛いと言えないこともない。 「………読書の邪魔だけはしないで下さいよ。」 足を楽な姿勢に組み直し、キツネにそれだけ声をかけると、ネオジムは再び文庫本を開いたのだった。 【ウーズ・デメルテ・フォルチ】
by radium_plus
| 2006-12-07 11:43
| Works:The Bishop
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