【アメリカの女王】

 



必要以上に静かな、そういう雰囲気が嫌いではなかった。
だから彼女は、このカフェを見つけた。
特に気に入りというわけでもなく、近くに来たらまあ何となく、という程度。
しかしマスターは言うのだ。
「いらっしゃいませ。…いつもので?」
ドアベルと、カウンターを挟んで佇む、初老の紳士が治める小さなこのカフェ。
「ええ。」
立ったまま頷き、薄暗い店内を見回して、彼女もいつものように肩をすくめた。
「…いつもながら、見事な閑古鳥だこと。」
声はよく通る方だと彼女は自負しているが、この店ではそれが邪魔になる。
何かを掻き乱してしまいそうな、そんな気になるから。
磨かれたテーブルは水の痕ひとつなく、椅子は行儀良く床に鎮座し、ワックスの利いた床の僅かな傷さえ、この店の何をも乱さない。
「恐れ入ります、ミス。」
苦笑も自嘲も無く、紳士は鮮やかな手際で、カップを一つ磨き上げた。
「お勧めの、アマツ産フレーバーは今日も用無しみたいね。」
「カウンターへどうぞ、ミス。フレーバーは用無しでも、スコーンは焼きたてですので。」
「あら。」
誘われるままに、カウンターへ足を運ぶ。無人の店内に、いくつか靴音が響いた。
無造作に選んだはずのスツールは、紳士のちょうど向かい側。
老練な手が手際よく事を運んでいくのを、何とは無しに眺めるうち、ふっとテーブルの中の自分と眼が合う。
「…。」
イイ女だこと。
頬杖をついた時、カチャリと微かな音がして視線をずらすと、銀のティースタンドにスコーンとサンドイッチがあった。
「どうぞ。」
いつの間にか、傍らに来ていたらしい紳士に悪戯っぽく問いかける。
「サービス?」
「セットです。」
商売上手ね、と微笑んで、キュウリのサンドイッチを一切れつまむ。
飾り気は無いが、昼食を抜いた腹には丁度良かった。
「美味しいわ。」
「ありがとうございます。」
心からの賛辞に、紳士は、微笑むでもなく追従するでもなく、ただ眼差しだけを寄越した。振り向いたその顔は無表情。
自信があるのね。
とは口にせずに、マイナはサンドイッチを齧った。厚塗りされたバターが舌に蕩けて喉に消える。本当に美味しい。
「これだけでもお金が取れるわね。」
サンドイッチが消費されるころ、やっと、黒い液体が供された。
コーヒーだ。
小さく礼をして、カウンターへ帰って行く紳士の背中に「ありがと」と短く声をかけマイナは一口それを啜った。
香ばしい味が口に広がる。コーヒーには、ミルクも砂糖も淹れずに飲むほうが、彼女は好きだった。
ここのコーヒーは尚更のこと、そうだった。
「…ねえ。」
紳士が振り向く。
「好きなのね、紅茶。」
カップをソーサーへ戻し、マイナは紳士の背後へ、目を向けた。
正確には、天井へ届く棚の中へ。
「ええ。」
紳士も、棚を見つめた。
「わたしの命です。」
整然と並べられた箱。幾つになるかは、すぐには数え切れないほどのその箱には、ひとつひとつ違ったラベリングがなされている。
それらは全てが、あらゆる産地の紅茶の葉なのだと、さほど詳しくも無いはずのマイナも知っていた。
「命ときたわね。」
「はい。」
予想はしていたが、随分と愛は深いようだ。
「…しかし」
マイナには背を向けたまま、紳士が呟く。
「心を傾けるほど、遠ざかられてしまいます。」
「…。」
少し首を伸ばし、マイナはカウンターの奥を覗き込んだ。
簡単な水場と、いくつかの調理道具、何枚かのクロース。
それ以外の全ては紅茶を淹れるためのものだった。用途不明に見える機材も、おそらくはそうなのだろう。
そしてその片隅にぞんざいに置き去りにされたコーヒー豆。小さなコーヒーミル。
「料理って、適当な方が美味しいっていうけど。」
紳士は、溜め息も悲哀も無く、マイナへ向き直った。
「それは、できません。」
「…そ。」
開店時、紅茶マニアの酷評を喰らって以来この店はずっと閑古鳥が巣を作っていた。
それでも店が続いているのは
「コーヒーのお代わりをお願い。」
「はい。」
マイナは、この店にいる別の客を見たことは無いが、自分と同じくらい冒険好きでコーヒー好きな誰かが、結構な数居るであろうことを確信していた。
「美味しいわ。」
「ありがとうございます、ミス。」
紳士は無表情に賛辞を受け取る。
自信があるだけではないのかもしれない、とマイナは思う。
「…ひょっとして、あんまり嬉しくないの?」
答えは無かった。
聞こえなかった振りをしたらしい紳士は、さっとクロースを手に取るとティーポットを磨き始めた。
(独り者の意地かしら。)
半年ほど前、ヒマを持て余して偶然立ち寄ったこの店で、コーヒーを口にしたマイナは、馴染みの何人かに教えようかと思ったものだが。
何度か通ううち、そのつもりは全て消え去ってしまった。
ティーポットの隅々までを磨き上げる紳士の手つきを眺めながら、彼女は内心こっそり溜め息をつく。
茶渋のひとつも付いていないポットを磨く意味など無いのに、そうして愛を示す事しか出来ない可哀想な紳士。
「商売先の家にね、思春期の子が居るのだけど。」
マイナが口を開くと、紳士が少し顔をあげて彼女の顔を見た。
「指輪貰っちゃったのよね。貰ったというか、手に押し付けられたんだけど。」
そのまま走って逃げた少年の耳は、ハッキリ解るくらいに赤かった。
思い起こして苦笑しつつ、ポケットから取り出した指輪を掌に乗せ、少し眺めてまた仕舞う。
「もう会わない人だし、相手は子供なんだから貰うのも一つの優しさだって言われたけど、やっぱり返してくるわ。」
「左様ですか。」
その一言だけを返し、紳士は再び目線を落としてティーポットを磨きはじめた。本当に聞いていたかどうかすら怪しい。
「その子が明日、ここに来たら、今日のこのセット出してね。」
「…はい?」
紳士の口調にようやく表情が見えて、マイナはしてやったりと、にんまり、笑った。
「だって、このセット美味しいんだもの。痛手の8割くらいは解決するわ。」
(貴方には申し訳ないのだけど、マスター。)
心の中でだけ詫びてマイナは、スツールを立ち上がる。
(叶わぬ恋の方が多いなんて不条理、当事者は語れないのよね。)
「また来るわ。」
紳士はティーポットを置こうともせず、マイナが来たときと同じように、カウンターの向こうから彼女を見送った。
「またのお越しを、ミス。」


【残りの2割は紳士の手の中】
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by radium_plus | 2006-12-07 11:59 | Works:The Bishop
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