エメラルド色に彩られたその回廊は、古の王が百人からの魔法使い達に作らせた、最高の芸術なのだという。 男は鼻で小さく息をつき…それがため息だと知っている人物は一握りだ、男は表情をあまり動かさないから…小さく、罰当たりめ、と呟いた。 古代の王者に対して無礼極まりない呟きであるが、この芸術の正体を身をもって知ってしまえば、八つ当たりの愚痴くらいは安いものだろう。 「呪術、か。」 今の技術では失われた、魔法の体系の一つ。 術者は大抵恨み深い根暗野郎で、被術者は大抵ロクでもない目に遭わされる。 たとえば、ヒキガエルにしたりするクラシックなものから、触れた水を全て高濃度のアルコールにしてしまうような、嫌みったらしいものまで種々様々なものがある。 しかし、これは。 男は改めて、エメラルドの回廊を見回した。 すぐ傍に円柱があるというのに、ここがまるで深い森のような錯覚を受けるのは、所狭しと飾られた、翡翠の彫像がまるで、森の一葉を彷彿とするからだろうか。 男はまた、鼻から小さく息をついた。 小一時間ほど前、彼は相棒とこの部屋へやってきた。 相棒は女性だった。彼女は、広がる翡翠像の芸術展に息を呑み、次にため息をつき、その美しさに感動して、少しだけはしゃいだ。 彼女のそういった様子は珍しかったので、男は、まあぶっちゃけ彼女に惚れていたので、表情筋一つ動かさずデレデレとしていたわけだが、その幸せも数分と続かなかった。 彼女が、翡翠の彫像の薔薇の精緻さに感嘆し、その花びらに触れた途端、触れた指先から激しい蒸気が起こり、じゅぅ、という音が男の耳を劈いた。 「…クソ。」 霞が晴れた時には、彼女の姿はそこに無く。 翡翠の薔薇が、否、翡翠の薔薇だった黒鼠が、呆けたようにちゅうと鳴くだけだった。 「…。」 回廊に置かれた翡翠の像は、森の一葉を彷彿とさせた。 そして森は、一葉が作り出す巨大な集合体である。 逃げ去る黒鼠には目もくれず、男は佇んで思案を重ねた。 触れたら、翡翠が鼠になった。 そして、触れた彼女は目前から消えた。 明白な発動条件と解除条件が、これが一種の呪術であるということをも明白にする。 「触れれば、翡翠に。」 発動条件は、おそらくそれ。 「触れられれば、戻る。」 解除条件は、おそらくそれ。 男は、顔の下半分を手で覆い、最後の難問にまた息をついた。 彼女は、どんな彫像に変身した? 情報が足り無すぎる。男は彫像の合間を歩き、どんな小さな事柄も逃すまいと観察を続けた。 まず、ここには人間の彫像が無いことに気付いた。動物、植物、壺や細工物、宝石やコイン、果ては食べ物のの彫像まであるのに、人間だけがそこにない。 それから、円柱に刻まれた言葉。 「『唯、汝が望みのままに』。」 声に出して読みあげると、殷々と無人の天井へと吸い込まれていった。 所どころにある円柱に数箇所、こういった言葉が刻み込まれていた。元からある細工なのかと最初は思ったが、どうやら違うらしい。 きちんとプレートに記されている部分もあれば、円柱に直接ナイフで刻まれている部分もあるからだ。 「…『何一つ持ち出せぬが、与えよう』…」 古び、汚れと苔の染み込んだプレートを撫で、ようやく読み取った言葉すら意味は不明だ。 「『鏡の』…」 三つ目の柱の文字は、豹の姿をした翡翠像に阻まれ読むことができなかった。 退かそうにも手を触れるわけにはいかない。男はしぶしぶ引き下がり、別の柱を調べようと身を翻し。 何かが、男の脳裏を光の速さで過ぎ去った。 「望みと、鏡」 捉えきれずに、男はキーワードを何度も繰り返し呟いた。 「持ち出せない、しかし与える。」 何を? 何を与えるというのか。 「…!」 男は四本目の円柱へ駆け寄った。 茫洋と中空を眺める翡翠の視線を縫って、その言葉は刻まれていた。 「『牢獄』」 読み上げた瞬間、カリ、と僅かに、石畳を引っ掻く音がした。 微笑んで、男は後ろに視線を遣る。 「ビンゴかい?」 ルアフの光が、隠れた者を晒し出す。 逃げ去ろうとする黒鼠の尾に向けて男は、たっぷりと聖水を投げつけた。 「ギャッ!!」 「…謎掛けは君の負けだよ、魔法使い。」 聖水によって焼け焦げた鼠に大股で歩み寄り、容赦の欠片も無い仕草で踏み付ける。 「大方、彫像が増えるのを期待していたんだろうが…残念ながら翡翠泥棒に来たわけではないのでね。」 「グギギ…」 「いかに王とはいえ、あの時代にこんなに大量の翡翠が存在する筈は――いや、話は後にしようか。さっさと呪術を解いて貰いたい。」 男のいたって暢気な口調とは裏腹に、力が篭った足の裏の圧力を味わいながら、それでも鼠は、否、呪術師は嘲笑した。 「キキキキキッ! 一度、発動シテシマエバ、呪術ハ我ガ手ヲ離レル! 女ガドコニイルカナド、コノ我デモワカランワ!」 体を半分に踏み潰され、鼠はもがいた。 「………」 カラクリは解けたものの、難題は残ったままだ。 が、先ほどよりは幾分かマシではある。 鏡。望みのままに。 なりたい姿を、或いは、望んだ姿を与えてくれる翡翠の呪い。 「………まあ、失敗した所で。」 黒鼠を完全に踏み潰し、男は一人ごちた。 同じ場所で、一緒に、永遠に翡翠になってみるのも、それほど悪くはない。 蒸気と、耳を突く音が三たび、響いた。 … ……… 「…どうしてわかったの?」 「勘だよ。」 涼しい顔で答える男に、彼女は呆れた顔をした。 安宿の一角、隅のテーブルで差し向かいに食事を摂りながら事の一部始終を聞いた当事者は、何ともいえない様子で茶を啜る。 「私、何になって…たの?」 「内緒。」 これが今回唯一の報酬であるから、とフルに頭脳労働した男は口を割ろうとはしない。 彼女は、今すぐ清算を済ませ部屋に閉じこもった方が良いような気がしていたが、流石に命の恩人…死にはしなかったのだろうが…にそんな無礼な真似もしたくない。感謝だってしている。 だからこそ次は迷惑をかけないように、今回の事も細々と聞いて確認しておきたいのだが男の方はあの様子だ。 彼女は諦めざるを得なかった。 「…じゃあ、これだけは聞かせて。何故あなたは翡翠にならなかったの?」 「翡翠に対する欲が、呪いの発動条件だったからさ。」 ここから先は仮説になるよ、と言い、男はカップを傾けた。 「『牢獄』という事はね。翡翠に僅かでも心を動かされたらアウト。盗人と見なされて呪いが発動するが…」 そうでない場合。 「純粋に助けたい場合、それなら呪いは働かないのさ。あの時代、あの王の御世に、あんな大量の翡翠が存在する筈は無かった。」 その謎の正体は、人間をそのまま翡翠にする呪いだったというわけだ。 「わざと盗まれ易い場所に翡翠を置いて、盗人を翡翠に変えていた…ってこと?」 彼女としては、自分もその範疇に含まれた事が納得いかない様子であったが、男は曖昧に笑ってそれを否定しなかった。 「半分正解だね。」 あの中には、翡翠のまま、永遠に彫像となっていることを望んで、自ら呪いに掛かっている者もいるだろう。 古代の王の御世から、ずっと。 だからこそ、番人としての魔法使いがいたのだろうが……それ以上の事は男の知った話ではない。 「…そう。」 彼女は空になったカップを置き、テーブルの上に数枚の硬貨を置いた。 「こういうのって現金かも知れないけど。ここの払いくらいは私に持たせて。」 「ああ。ありがとう。」 男はやっぱり涼しい顔で、こちらも空になったティーカップをカチ、とソーサーへ戻す。 「まあ、詳しい話は、後で部屋でしよう。」 ちゃっかりと言外に「後で部屋を訪ねる」という意味合いを混ぜると、気付かず彼女は頷いた。 男は内心こっそりニヤけて、さて、突然のプレゼントにうろたえる彼女に何と声を掛けようかと楽しく悩み始めた。 【まあどれにしろ回し蹴りは喰らっとけ。】 あの人とあの人の話。 いままで翡翠の呪いのネタはあったんだけど、書けるキャラがいなかったので。
by radium_plus
| 2006-12-07 11:54
| Works:The Bishop
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Giouette:「温室の哲学者」のあれこれ
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